神様の憂鬱

神様の代わりにいろいろ経験しています

不自由な言葉

 

言葉というものは

自分がこういう意図で言ったのに

全く違う意味にとられるなんてよくあることだ

  

お釈迦様の経典や

聖書にしても

書きおこした人の解釈で

言われてることと違う意味になってるかもしれない

  

ちょっとした言葉のすれ違いから

友人や恋人と喧嘩することもあるだろう

『そんな意味で言ったんじゃないのに』と

思った場面もあるだろう

 

言葉とはコミュニケーションをとる手段であるが

争いを引き起こす可能性もあるのだ

 

 

 

最近読んだ

『毒舌訳  哲学者の言葉』

という元猿岩石の有吉弘行さんの本に

 

“哲学とは・・・変わり者が適当に言ったことを普通の人が無理やり

「わかるわかる」と納得してあげているもの”

 

と書いてあったのがまさしく言い得てる感じ

 

 

 本人は適当なことを言ってる訳ではないが

どんなに言葉を使って説明したところで

結局受け取る側にすべてを委ねるしかないのだ

 

 

 

言葉というのは自由に表現できるけど

なんとも不自由なものでもあるのだ

 

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